「喜連川」
この地名が読める人は地元民かよほど関東の地理や戦国武将に詳しい人だろう。
喜連川―現在は栃木県さくら市―江戸時代にこの名を聞いた人はどことなく高貴な感触を持ったことだろう。それもそのはず下野国の喜連川藩の藩主は「御所さま」「公方さま」と呼ばれていたからだ。
御所とは京都御所のように帝のおわす所、大御所のように引退した征夷大将軍とくに徳川幕府初代将軍である神君家康公のことを憚って呼ぶ名称である。公方とはこれまた将軍のことを指す尊称である。
かくも尊く呼ばれる喜連川藩はさぞや大藩なのかと思いきや、石高はわずか五千石。
1石が1000合だから1日3合食べるとすると1石は約1年分の米ということになる。収穫した米をそのまま藩内で消費していたとしたら喜連川藩はたった5000人の人口の町でしかなかったことになる。金銭に換算すると1石=金1両が江戸初期のレートで、ざっくり現在の貨幣に換算すると1両=10万円程度らしいので、5000石は約5億円に相当する。個人事業主なら左うちわで笑いが止まらないだろうが、この予算で市町村を運営するのは非常に厳しい。参考までに2025年の日本国内の人口5000人の町、北海道の上士幌町の年間予算は99億円。十勝毎日新聞
さて江戸幕府の法制度に詳しい方なら首をひねったことだろう。五千石では藩主と言えぬ。大名と名乗るには一万石以上必要で、それ未満は小名というか旗本なのではないか。検地の役人が間違えたか、転封や減封を食らって一万石以下に落とされてしまったのか。
その辺の事情は本書を読んでもらうとして、五千石という貧乏な小藩がいったいどうやって藩政を経済的にやりくりしていたのか、その秘密に迫るものである。
近世とはいえ江戸時代は士農工商の身分制度であったから、武士階級まして大名であれば何かと名目をつけて御用商人から徴発したり、いざとなれば借金を踏み倒すという裏技を使って楽勝だったのではと思うだろう。歴史上最も有名で規模が大きい踏み倒しは幕末の薩摩藩の五百万両だろう。薩摩藩の家老調所広郷は商人を一同に集め、借金500万両を無利子で毎年2万円ずつ250年かけて返すと宣言し、これが飲めないなら腹を切ると脅迫し、商人たちに強制的に承諾させた。もちろんこの図々しい踏み倒し契約(返さないとは言ってないが無利子なら贈与と同じ)は最後まで履行されたわけがなく明治になって薩摩藩も消えてうやむやになってしまった。
しかし、われらが誇り高き喜連川藩はそんな小狡い手段には頼らない。おもてなしの精神を発揮し、大大名からも一目置かれ、領民の暮らしに日々心を砕き、領内の巡察を欠かさない。きわめて珍しいことに喜連川藩領内では江戸時代の約260年間一度も一揆が起きていないのである。それだけ領民から慕われていたのだろうとうかがわれる。
喜連川藩主のやりくりの苦労を知ると、現代の地方自治体がふるさと納税のあれやこれやで財源の確保に心を悩ませているのと通じるものがある。
歴史をすでに終わった遠い過去の話ととらえるのでなく、現代とも通ずる人類普遍の事柄ととらえることで、歴史的建造物やゆかりの土地が活き活きと見えてくる。護美錦と名高いサツキの花、手入れの負担を考えた鼈甲垣も風情あり、十代藩主が領民のために整備した御用堀の水路に今も水が流れていることを実見できるだろう。
本書は文庫本としては200ページ未満と短めだが、これだけの内容を要領よくまとめるには相当な史料の分析とバックグラウンドが必要と思われる。
現代の喜連川はどうなっているのか興味がわいた人は実際に見に行ってみるといい。東京駅から新幹線利用で1時間30分ほど。
さくら市 喜連川散策マップ
https://sakura-navi.net/tourism-speciality/tour-guide-map/kitsuregawa-map/
日本三大美肌の湯といわれる喜連川温泉で疲れを癒やしていってもいいかもしれない。
