伝説の数学者岡潔の随筆集。京都大学(当時は京都帝国大学)理学部数学科卒の岡潔は多変数函数論の分野で三大問題を解決し、世界の数学者を驚嘆させたという。岡の数学の研究成果がどれほどか自分にはまだ測り知ることができないので、他者の評判を紹介するだけにして、ここに読んだ感想を書き残しておく。
岡潔 数学者 NHKアーカイブ
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009072047_00000
岡潔先生のやっていた内容って、今だと大学の普通のレベルの内容なのですか。- Yahoo知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12314196172
岡潔の随筆を読んでいて感じたのが、東洋の思想、とくに老荘思想が根底に流れていることだ。無差別智や自然に従うという生活態度など老荘思想の実践者というにふさわしい。老荘思想は禅とも関わりがあり、岡潔も仏教に帰依したことがあるが、岡潔本人が大器晩成型であり(大器晩成も老子の言葉)、早熟な成果を求める早期教育にも警鐘を鳴らしている。「成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。」(『春宵十話』「人の情緒と教育」光文社文庫p.12)というところなどによくあらわれている。
「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。(中略)私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。」(「発見の鋭い喜び」同書p.33)のくだりは、『荘子』内篇の逍遥游と斉物論そのものだ。
荘子山木篇に「不材をもって天年を終ふるを得たり」とあるが、周囲に刈り取る者がうろついていれば、岡潔のような大木は大木となる前に枯れてしまっていただろう。とくに社会が目まぐるしく変化した戦後の高度成長期は大器晩成型にはつらい時代であったろう。
天才の教育にも一言しているが、昨今の小学生から英語だプログラミングだの親や塾が教え込む早期教育とは全く一線を画する。「役に立つ教育」を幼少期から叩き込めば天才になれるはずのような利己的な単純思考を毛嫌いしている。情緒・情操が大切だという。もちろん、大金をかけて子供を海外旅行や芸術鑑賞や体験学習に連れて行って「情操教育」をほどこしているというような「情操」とは違う。
事実、岡潔はなぜ数学をやるのか聞かれて、「数学には発見の喜びがある」と答えている。とかく数学も含めて文学など実学向きでないものは一緒くたに「役に立たない」と切り捨てられがちであるが、そもそも損得のことは我関せずという態度だ。世界的に名の知れた数学者だからといって、最初から数学が得意であったわけではない。高校から数学を志向しだしたようで、小中学校ではさほどでもなかった。つるかめ算がうまく解けた記憶がないとも書いている。物語や歴史が好きでよく読んだと書いているし、芭蕉の俳句を引用したり、絵画や植物の観察や昆虫採集などに夢中になったことに言及している。本当に頻繁に出てくるので嘘偽りなく好きなのだろう。これが情緒・情操ということの本質だと思う。
「役に立たない」といって古文・漢文、歴史を切り捨てて、「役に立つ」英語やプログラミングを詰め込ませて最短ルートでエリートを育成しようという価値観とは対極に位置する。
どういう時に発見や着想が生まれたかというと、机にかじりついて数式とにらめっこしている時ではなく、席から立ち上がった時や何かほかのことをしている時に思いついたというのは示唆に富む。
試験が終わってテスト用紙を回収して教室から出た時に解法を思いついたことは自分も経験があり親近感を覚えた。
しかし、試験は一番難しい問題から解いていたというところは全く変わっている人物と言うしかない。証明問題を図を描いて考え続けて、鼻血を出して寝込んでしまうほど、疑問に思ったことは沈思熟考する性質だったらしい。
「数学=計算」ではないということも繰り返し強調している。教師の形式主義も批判している。印象に残った文を引用する。
いま、たいていの中学、高校では答案が合っているかどうか生徒にはわからない。先生が合っていれば合っているというだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答が合うことよりも、自分で合っていると認めることのほうが大切なのに、それがわかっていない。こんなのが大きくなったら大事故が起るのは当たり前だと思う。(同書p.110「三河島惨事と教育」 原文ママ)
ここには大きく肯いたところである。いい青年にもなって受け身で教師の言うのにただ従うのでは進歩がない。わからない人はいつまでもわからないのだろう。もう60年以上も前の随筆であるが、すでに「計算は機械に任せるが、数学の役目は機械にはできないことをやる」と今のAIの議論を思わせるようなことも書いている。もっともAIの信奉者が言うような「すべてAIに任せればOK。人間の役割は高度な判断やクリエイティブな仕事だけ。あとはすべて無駄なもの。古文漢文歴史は削れ。」のような浅はかで反知性的な態度とは正反対であることを付言しておく。
夏目漱石や芥川龍之介、寺田寅彦など同時代の人にも言及しているところも興味深いが、単に衒学や余興で文学に触れているのでなく、辿ってきた思考の流れをうかがい知ることができるという点できわめて示唆的である。
このように書いているとさぞ深淵で高尚な随筆集かと誤解するかもしれないが、これは社会時評に馴れすぎた私の文体の問題であって、本書『春宵十話』は非常に読みやすく2日で読み終えてしまった。気取ったエッセイというより親しい人との茶飲み話をそのまま文字にしたという感じだ。肩に力が入っておらず、かといって語り口に無駄がなく、テンポが良い。珍しく読んで清々しい気分になれた一冊である。