三国志というとフィクションである『三国志演義』の蜀の劉備・関羽・張飛の義兄弟らを主人公に、力による支配を目指す魏の曹操の覇道に対抗して、弱小ながらも仁義を武器に漢室再興に力戦奮闘する王道展開がまず思い浮かぶ。本書はそんな王道展開と異なり、脇道に回り道して、再び本通りの広場に合流してみるような趣がある。地図の端から埋めたり、盤面の角から攻めるようなタイプである。
本書を読む上で、あるいは読んだ後にでも頭の片隅に入れておいてほしいことが3つある。
様々な作者によって語られてきた三国志の物語は「蒼天すでに死す」の農民反乱・宗教反乱の黄巾の乱から始まることが多いが、黄巾の乱の首領張角の太平道が大陸の東で起こったのとほぼ同時に、西にも五斗米道の宗教勢力が起こっていた。五斗米道というと、劉備の益州入りの際に益州牧劉璋や西涼の馬超と一悶着あった五斗米道の教祖張魯という形で登場してくることが多い。飢饉が頻発し、政治が乱れると、新興宗教を核にして反乱が起こるのが歴史の常だった。
次に考えてほしいのは、劉備玄徳が文字通り東奔西走、縦横無尽に中国大陸を駆け巡ったことである。中国東北部の幽州の公孫瓚のもとから徐州の陶謙のもとへ。曹操や呂布と戦いを繰り広げた後、領地を失い、荊州に逃げ、長江を下って呉の孫権と同盟。赤壁の戦いで曹操を破り、領土を広げ、最後は南西の益州を支配し、ついに蜀漢帝国の建国を宣言する。領地を持たない義勇兵から出発して一国の主にまで成り上がった立身出世譚として人気なだけでなく、漢室復興という大義に奉じる忠義者として語られる。184年の挙兵から223年に白帝城で没するまで、二十数度の合戦に明け暮れてきたが、驚くべきことは、大敗し城を失ったことも何度もあるにもかかわらず、再起を果たしただけでなく、踏まれても立ち上がる麦のように以前を上回る勢力を得て天下を三分するほどの国を築き上げた展開はドラマチックである。それだけ仁義・忠節に厚く、人望があったと推測される。
しかし、一方で劉備に攻略された地域の視点から見てみると別の評価もできる。中山靖王劉勝の末裔と怪しげな出自を自称し、おのれを高く売りつけられるタイミングで困窮した実力者に近づき、領土を獲得し、戦で敗北しても潔く自害せず、地の果てまでも逃げ惑い、また別の土地で漢室再興などと世迷言をうたう。同じ劉姓だからと劉表や劉璋に味方するとわざわざ遠方から乗り込み、しまいには主家に取って代わる。特に蜀入りに関してははじめから内応者と呼応しており、いくら美化しても領土的野心はごまかしようもない。こう書くと劉備という人物は何と抜け目のない狡猾なやつだと感じる。
人物評の是非はともかく、ここまで劉備が活躍できたのは歴史の偶然か必然か、その謎を追ってみるのも興味深い。
3つ目は、中国四千年の歴史と一口に言うが、本当に昔からずっと固定した形で伝統が続いていたわけでなく、漢民族以外の文化の影響は常に受けており、特に乱世ではそれは顕著になる。三国志の時代にはまだ仏教は本格的に受容されておらず、太平道や五斗米道も道教系の教団であった。仏教の本格導入は三国志のさらに後の五胡十六国時代であり、隋唐時代になって国家の保護を受けるまでに至る。もちろん、他文化が中国に流入しただけでなく、他民族が漢民族の文化の影響を受け、ほぼ漢民族と同化(漢化)してしまった例もある。五胡十六国時代の南匈奴の劉淵は遊牧民出身であるが、漢の高祖劉邦の末裔と称して漢王を名乗った。満州族の清王朝は約300年中国を支配したが、最後の皇帝溥儀は漢語は話せても満州語はほとんど話せなかったという。
陳舜臣の『秘本三国志』は全6巻ある。単純に劉備賛美の『演義』よりは史実よりであるが、歴史小説であるから創作の要素もある。戦闘描写は控えめで、むしろ戦いに至るまでの工作活動や同盟関係に重点を置いている。淡々とした記述のせいか、6巻という長さをあまり感じさせなかった。本書は三国志の流れをひと通りおさらいしつつ新たな視点を提供する歴史小説である。