2019年10月19日東京大学ホームカミングデイ文学部企画の同名のシンポジウムを編集した新書を読んだ。
リンク
猫も杓子もAIをもてはやす風潮を背景に、センター試験が共通テストに変わり、「実用的でない」とされた国語などの文系科目が大幅に改変されようとしている中、危機感を覚えた東大文学部の教授5名が講演を主宰した。
第一章の英米文学の阿部公彦教授が取り上げているように、「読解力」と「注意力」は別物だと思う。まず入試改革の審議会において、「読解力が大事」とはいうが、肝心の「読解力とは何か」が定義されておらず、ただ無駄に長いだけの問題文から必要な情報だけをピックアップして、指定の方式で解答することを競うというのは、「注意力」の問題であろう。
「グローバル化に対応できるように、大学入試をもっと実用的な内容に」のかけ声のもと、実際に実施された共通テストの初年度の数学IAショック(と日本史Bショック)の無様な結果を見れば、そもそも作問の発想や学力の判定方法が根本的に間違ってるとしかいいようがないだろう。だいたい角度や長さを求めるのに、いちいち太郎と花子が会話するくだりは必要なのか、複数人の会話から情報を抜き出すのが多様な思想を理解するということとは全く別だ。問題文の中に雑音が多すぎる。もっと言うと、ゴミ山の中から貴金属の欠片を見つけるような試験は学力を問うものではない。数学の問題文に余計な情報は不要。「nは自然数、mは3の倍数」などと定義したら、その条件を「布石」のように利用して解答を求めていくのが数学的思考力を試すものである。「tan1°は有理数か。」の伝説の一行問題のように、初見は面食らうが、あとから見ると無駄な情報が一つもないというのが深く考えさせる問題の真髄であろう。
実際、無意味な会話文のせいで、聞かれる知識は浅い問題が多い。日本史などは、まるで来日2日目の外国人観光客にWikipedia片手に現地の日本人相手に観光案内させてるようなものだ。要するに回りくどいわりに内容が薄い。
「桶狭間の合戦や長篠の合戦に勝利し、天下統一を目前に本能寺で討たれた尾張生まれの戦国大名は誰か」と聞けば、日本在住者の十中八九は「織田信長」と答えるであろう。しかし、「宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に日本の国王と書かれている大名は誰か」などと聞かれれば、ほとんどがピンとこないであろう。答えられたとしても所詮トリビアを競うクイズでしかない。そうではなく、「次の中で織田信長が行った事業はどれか」とか「織田信長が実施した主な政策を3つ答えよ」と聞いた方がよほど歴史に関して深い理解を問うている。
もう一つ、大学入試改革の発想の間違いは、作問者が文脈の多様性というものを理解していない、というより理解できていない疑いがあることだ。劣化したAIに機械翻訳されたような悪文が問題文に挙げられて、「今回のテストは平均点が低かった。やはり今の学生は読解力が低い。」と嘆いて、またまたマッチポンプで教育改革のネタとし、特定企業への利権誘導はなはだしい。本来、共通一次から続くセンター試験は基礎学力を問うものでおおむね平均点6割程度になるよう作問されてきたものだ。それが一気に20点も下げて、平均点4割というのは、もはや受験生の質の問題ではなく、明らかに作問に不備がある。考えなしに軽口で言った失言を叩かれて「誤解を招いたなら謝罪する」という政治家と同じくらい無責任。「誤解を招いたなら」という物言いは、まるで悪いのは自分ではなく、誤解した受け手だというニュアンスがある。だが、過半数の受け手が「誤解」したなら、それは受け手の問題ではなく、そんな誤解しやすい表現を使った発信者の方に問題がある。
そして意外にも、「実用的でない」とやり玉に挙げられた国語の方は、センター試験から共通テストになっても、大幅に変更が加えられなかった。これはおそらく文脈の多様性や多義語について作問者の造詣が浅く、真の意味で実用的な新聞や契約書などを使うと、一定以上の学力のある層は容易に正解してしまうだろうし、社会その他の予備知識がある方が有利になるので、結局、従来とほぼ同じような問題となったと考えられる。もし実用性重視かつ機械翻訳的に単語だけつないで「論理的」だとする発想で国語の問題を作るなら、それは日本語ネイティブ向けの「国語」ではなく、日本語非ネイティブの外国人向けの「日本語」となるだろう。そのうえで、難易度を上げるためには、いたずらに長文にするか、接続詞を不正確に使う、文どうしのつながりをわかりにくくする、要するに悪文にするということになるのだろう。
こうして国語の問題文は悪文ばかりという時代が到来する。テストには、とてもお手本にはできない悪文ばかりが並ぶ。極論すると、テストで測定される能力とは、悪文に対する「読解力」、すなわち意味の取りづらい文章の意味を読み取り、設問の趣旨に最も近い「正解」の選択肢を選ぶ能力ということになる。その難関をくぐり抜けてきた学生たちの書く文章は、これまたひどいものになることが容易に想像される。大学入学後に教授に指摘されても、何が悪いのかとキョトンとする様が目に浮かぶ。だって、お手本がそうなのだから仕方がない。
もっとも、近年の改革も悪いところばかりではない。国語の教科書を見てみると、文学作品ばかりでなく、日常的な文章が題材となったり、書き方のガイドが取り上げられている。広告キャッチコピーの付け方や、事実と意見の区別、三角ロジックなどの論理構成など、すべて身につければとても良い文章力が身につくものとなっている。それにもかかわらず、共通テストの方向性は、そうした実用的な文章つまり「分かりやすい文章を書く」能力とは、著しく乖離している。もし実用的な文章力をみたいのであれば、わかりづらい問題文をわかりやすく書きかえる、つまり受験者の方が問題文を添削するというやり方しかないように思われる。長文や小論文を、制限字数で要約させる課題も有効だろう。
やはり国語の授業と試験は別物と考えたほうがよさそうだ。授業では名文を取り上げるが、解き方は教えず、テストは悪文ばかりで、正解を選ぶやり方は塾や予備校で有料で教わるが、きちんと伝わる文章は一行も書けず、英語はペラペラだが難しい日本語はわからないというようなバランスの悪い人間を量産していくことになるだろう。
だいたい広い意味での「日本語」である古文や漢文すら、まともに読解できないような学力層が大学に入ったところで、グローバルで最先端の学問を身につけられるとは到底思えない。ましてやそこから創造的な営みが生まれることはあり得ないだろう。幕末・明治の文士たちは異国・異文明との衝突に危機感を覚えながらも、異なる文明圏の思想の理解に努め、将来に役に立つ普遍的な科学知識を、ありあわせの漢語の知識から翻訳語を創造し、自分たちのものにしようと努力した。小手先の技術で終わらず、自然科学の原理・法則や深い人間理解まで目指していた。それがどれだけ実現したかはともかく、意図した枠組みは正当なものだったはずである。
現代の一握りのグローバル企業が作り出した秩序を疑問に思わず、「世界に置いていかれないように」「トレンドに乗っかりたい」などという意識では、夢幻泡影、月を追いかけ雲を掴むかのごとく、空しく終わるであろう。「日本に技術あって科学なし」、と言われる所以である。そのうち技術もあやしくなりそうだが。二番煎じでプログラミング教育だと力を入れても、技術を使うというよりツールに使われるだけであろう。肝心の他者理解が浅ければ、ユーザーのストレスを増やすゴミアプリを量産してしまう。政府主導で進められた新型コロナ接触確認アプリCOCOAは何の役にも立たなかった。
学力は基本原則や法則の応用の積み重ねによって身につけられるものであって、流行を追っかけているだけではどうあがいても最先端には行けないし身につくものも身につかない。結局、基礎学力こそが重要というありきたりな結論に落ち着きそうである。
