4択クイズ 歴史2

次の(   )に入る語句を選べ。

第一次世界大戦に敗北したドイツは( 1 )によって巨額の賠償金を背負った。1923年、賠償金の支払いの遅れに業を煮やしたフランスはルール工業地帯を占領した。これによりドイツ経済はさらに混乱し、天文学的なインフレに苦しめられた。ドイツ社会民主党のシュトレーゼマン首相の経済政策とアメリカの介入によりルール占領は解除され、インフレは収まった。しかし、1929年、ニューヨーク株式市場の暴落に端を発する( 2 )の発生により、再び経済は混乱した。

このような混乱の中で連合国に復讐を決意し、「ドイツ第三帝国」の建設を宣言したのがオーストリア生まれのアドルフ・ヒトラーである。彼は( 3 )(略称ナチス・NSDAP)の党首となり、1933年選挙で第一党となった後、国会に放火し、野党議員を追放した上で、首相と大統領を兼任した総統(フューラー)となって独裁政権を確立した。

政権を握った後、国外のドイツ系住民の保護を理由に積極的な領土拡大を図り、1938年にオーストリア併合、1939年にはチェコスロバキアを併合した。イギリス首相チェンバレンはドイツの領土要求が東欧だけであること、1936年に結ばれた日独伊防共協定のように反共産主義を掲げていたことから、この動きを容認していた。しかし、1939年9月、共産主義国であるソ連と独ソ不可侵条約を結び、( 4 )に侵攻したことから、危機感を感じ、イギリス・フランス両国はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。

問1 ( 1 )
ロンドン条約
ヴェルサイユ条約
ジュネーヴ条約
ハーグ条約

問2 ( 2 )
世界恐慌
昭和恐慌
バブル崩壊
リーマン・ショック

問3 ( 3 )
ドイツ全体主義党
ドイツ民族大同団結党
立ち上がれドイツ保守党
国家社会主義ドイツ労働者党

問4 ( 4 )
ポーランド
フィンランド
デンマーク
スロベニア

この流れに対し、「欧州情勢は複雑怪奇」との迷言を残して8か月で内閣を総辞職したのが平沼騏一郎である。平沼は極端な国粋主義かつ反共産主義であり、司法官僚でありながら国本社という政治結社まで組織していた。思想検事としての活動は多く、1910年大逆事件で( 5 )に死刑を求刑し、1934年帝人事件の捜査によって立憲政友会の斎藤実内閣を潰そうと暗躍し、1941年企画院事件では治安維持法を使って政府職員20名以上を大量検挙した。のちに「検察ファッショ」と批判されるほど国内では権力をほしいままにしていたが、ドイツがソ連と不可侵条約を結んだ経緯を理解できず国際情勢には疎かった。敗戦後、平沼はA級戦犯として( 6 )(通称東京裁判)で終身刑を宣告された。

問5 ( 5 )
新島襄
太宰治
幸徳秋水
吉野作造

問6 ( 6 )
歴史の法廷
日本戦争責任清算委員会
東京戦時賠償認定裁判
極東国際軍事裁判

平沼内閣の一代前、第一次近衛文麿内閣は挙国一致を掲げて国家総動員体制を整えた。1937年に起きた( 7 )に始まる日中戦争勃発を受けてのことであった。国民党軍を追って中国大陸に深く侵入した日本軍は北京、上海、南京を占領。主要都市を占領されても降伏しない中国軍の姿勢に、いったん進軍を停止し、「国民政府を対手とせず」「大東亜共栄圏」などを主軸とする近衛声明を発表する。中国軍が徹底抗戦したのは、張学良が起こした( 8 )によって蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の第二次国共合作が成立していたからである。

1940年、ナチスドイツがパリを占領し、フランスを降伏させると、日本軍は豊富な資源を狙ってフランスの植民地であった北部仏印に進駐する。この時の第二次近衛内閣では、大政翼賛会が作られ、すべての政党は解散させられた。南方を攻める一方で、北方のソ連とは1941年4月、日ソ中立条約を結んだ。

それから間もない1941年6月22日、ドイツ軍が「バルバロッサ作戦」と号する奇襲作戦によってソ連を攻撃した。当初、ソ連は大敗し、第二次大戦および一国として最大の犠牲者を出した。独ソ戦においてドイツ軍の死者390万人に対し、ソ連軍の死者は1470万人にも上る。ソ連は多大な犠牲者を出したこの戦争のことを大祖国戦争と呼んでいる。ドイツ軍はモスクワまであと十数キロに迫ったが、いわゆる冬将軍の到来と焦土作戦により、消耗戦を強いられることになった。

問7 ( 7 )
満州事変
盧溝橋事件
山東出兵
張鼓峰事件

問8 ( 8 )
上海事変
西安事件
南京事件
武昌蜂起

日本の仏印進駐はアメリカを刺激し、アメリカ・イギリス・中国・オランダによる経済制裁、いわゆるABCD包囲陣を招くことになった。局面打開のため、1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。開戦前の大本営の机上演習では、最初の1年は十分に戦えるが、その後は石油などの資源が尽きて戦えなくなるとの想定であった。資源が尽きる前に敵に大きな打撃を与えて有利な条件で講和しようという「一撃講和論」が主流を占めていた。
日本軍は東南アジアや太平洋の島々を占領したが、1942年、( 9 )の敗北により、形勢は逆転した。「開戦1年は十分戦える」との大本営の想定通りの展開であった。

ドイツのソ連侵攻と日本の対米参戦は米ソの接近を招くことになった。アメリカは連合国としてソ連を支援し、ソ連はドイツ軍を次第に追い詰めた。1945年2月、米英ソ3か国はクリミア半島で( 10 )を行い、ドイツ降伏後3か月以内のソ連の対日参戦と千島・樺太のソ連領への譲渡を約束した。同年4月ドイツが降伏。7月日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言が発表される。会談にソ連は出席していたが、ソ連は日本に宣戦していなかったため、宣言はアメリカ、イギリス、中国(国民党)の名前で発表された。日本は「ポツダム宣言を黙殺する」と発表していたが、裏ではポツダム宣言に参加しなかったソ連を介してアメリカ含む連合国と条件付きの講和を打診していた。8月8日ソ連は日本に宣戦布告し、満州、千島、樺太を攻撃した。アメリカは8月6日広島、8月9日長崎に原子爆弾を投下。仲介役のソ連に裏切られ、米軍の空襲により多大な被害を受けた日本は、8月14日アメリカにポツダム宣言の受諾を通知。8月15日玉音放送によって公表した。

問9 ( 9 )
硫黄島 アッツ島 ミッドウェー島 サイパン島

問10 ( 10 )
ヤルタ会談 ポツダム会談 カイロ会談 ダンバートン・オークス会議

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